東海道 桑名七里の渡し~四日市 [旧東海道]
1月12日 晴一時曇り
桑名駅0→0:20七里の渡し→0:57町屋川橋→1:43朝明橋→2:14富田・十四川→
2:59四日市・海蔵川
亀山市・井田川駅までの歩行距離 40.87km
1月2日に関宿から三雲まで歩きました。本日はその先、京都まで歩こうかと思っていたのですが、昨年レポートした三重県内の庄野~桑名間(自転車)が、自分的に不十分でしたので、今回は桑名~庄野間を歩いて、町並み等をじっくり(早歩きですが)見ることにしました。
庄野に到達した時点でまだ余裕がありましたので、さらに進んで、結局夕暮れまでに亀山市の井田川駅まで歩くことができました。
天気は、朝から午後1時くらいまでは穏やかな良い天気で、シャツ2枚で歩いていても暑いくらいでした。その後北西風が吹きだして寒くなりましたが、歩行には問題なく、快適に歩くことができました。
今回も長くなりますので、2回に分けてレポートいたします。
住吉神社
桑名駅から歩いて、揖斐川右岸の住吉神社に到着しました。、住吉神社は廻船の航海の安全を祈るため、大阪の住吉神社から勧請して建立されたそうです。石灯篭は、江戸期に材木商達が寄進したものだそうです。ここでお参りした後、「七里の渡し」へ向かいました。
住吉神社横の堤防から、揖斐川、伊勢大橋、長良川河口堰等を見る
七里の渡し跡、伊勢神宮の「一の鳥居」
ここが東海道・伊勢国の東の起点です。
熱田の宮宿と桑名宿を結ぶ「七里の渡し」ですが、宮宿と四日市宿を結ぶ「十里の渡し」というのもありました。江戸中期以降は十里の渡しの方が、利用者が多くなり、四日市宿と桑名宿との間では、たびたび争いが起こったそうです。
蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)
復元されたものです。一般開放されていますので(通常午前10時~午後3時)、ぜひ2階からの展望を楽しみましょう。蟠龍櫓は歌川広重の「東海道五十三次」にも描かれているそうです
春日神社、珍しい銅製の鳥居としるべ石
銅製の鳥居は寛文七年(1667年)、七代桑名藩主松平定重によって建てられたそうです。
桑名城城壁
揖斐川の川口樋門から南大手橋まで、延長約500mが現存しているそうです。
この先、城下町特有の曲がり角だらけの街道ですが、標識が整備されましたので、迷いにくくなりました。一部、失われた道もあるそうです。
矢田立場の火の見櫓
この角を左に曲がると、街道は町屋川(員弁川)まで真っすぐです。
料亭「玉喜」
町屋川突き当りの手前にあります。かつては街道名物安永餅を売っていたそうです。現在は近くに新館の料理旅館があります。
町屋橋跡
現在は小さな公園になっています。江戸時代には、川の中州を利用して、橋が二本に分かれていたそうです。この手前の交差点には常夜燈があります。
榎
近鉄伊勢朝日駅横の踏切を渡った先に、一本の榎が残されていますが、一里塚ではありません。
朝明川左岸堤防の常夜燈
朝明川左岸堤防手前の街道筋は桜並木の道で、春には綺麗な桜を楽しむことができます。
朝明橋から鈴鹿山脈方面を見る
少し霞んでいますが、釈迦ヶ岳、御在所岳、鎌ヶ岳が見えます。右は新名神。この橋から富田の入口付近までの街道は、アクセスの関係上、交通量が多くなります。
橋を渡った先の蒔田・大矢知地区は素麺の産地で、私も大矢知素麺をよく食べます。
十四川の桜
昭和15年に植えられたそうです。開花期にはたいへん賑わいます。
力石
もとは寺の土台石だそうで、明治中期から大正後期にかけて、茂福地区の青年たちが持ち上げて、力比べをしたそうです。大きい方は120kg、小さい方は19kgあるそうです。
茂福城跡
茂福城は室町時代から戦国時代にかけて在った城で、平維茂の子孫、平貞冬が、15世紀に越前・朝倉から茂福へ来て城を築き、朝倉氏を名乗ったそうです。最後の城主は、滝川一益に長島城へ誘い出されて殺され、その後、朝倉氏は滅亡したそうです。
かわらずの松
戦前まではこの付近の街道には松並木があったそうです。戦後の道路拡幅により、松並木は伐採され、この松だけが残ったそうです。
万古焼
四日市名産の万古焼です。羽津から川原町駅周辺にかけて万古焼工場が所々にあります。
順調に海蔵川左岸堤の桜並木に到着しました
ここも開花期にはたいへん賑わいます。河川敷は公園になっており、散歩されている方を時々見かけます。堤防横には一里塚跡があります。ちょうど良い時間になりましたので、ここで約25分間食事休息をしました。