東海道 蝉丸神社~京都・三条大橋~JR山科駅 [旧東海道]
1月25日 曇り後晴れ
2:32蝉丸神社2:48→4:06蹴上・インクライン跡地4:18→4:39三条大橋4:55→
5:55JR山科駅
(表示時間は、出発地からの累加時間です)
蝉丸神社で補給休息させていただき、元気が出てきたところで、再出発しました。旧道から一号線に合流し、右に京阪京津線、名神高速を見ながら降ってゆくと、しばらくで名神高速の高架下を通り抜けますが、通り抜けたところに交番があり、そこで左の旧街道に入ります。この辺りは、旧東海道沿い付近が大津市と京都市の境界になっています。
髭茶屋の追分
京街道(大坂街道)と東海道(右)の分岐点です。
横断歩道橋で一号線を渡ります
一号線を渡ったところは、まだ大津市で、渡ったところから300mほど進むと、京都市山科区です。
徳林庵
臨済宗南禅寺派の寺で、山科廻地蔵、山科地蔵、四宮地蔵のほか、たくさんの呼称があります。
緩やかな下り坂の旧街道を下ってゆくと、やがて旧東海道は三条通と合流しますが、その交差点を横断し右折して三条通を260mほど進むと、また東旧海道分岐があり、左折します。
三条通から旧東海道へ入る分岐
この分岐は、標識が付けられましたので、見つけやすくなりましたが、目立たないので、うっかり見逃して直進してしまいやすいところです。
日ノ岡の急な登り道
たいへん急な坂道です。しかし、東海道・采女の杖衝坂のような強烈な急勾配ではありません。
三条通に合流
道幅の狭い急坂を登り、しばらくすると、ふたたび三条通に合流しますが、そこに広場と車石記念碑があります。
車石は、牛馬車の車輪幅に合わせて敷設された凹状石ですが、これは、急坂等の土道ではすぐに浸食されて荒れてしまうので、道を保護するためや、牛馬車がコントロールを失ってスタックするのを防ぐために設けられたものですね。
日ノ岡峠で山科盆地と別れ、京都盆地に入ります。しばらく進むと蹴上浄水場の侵入防止柵沿いになります。
右手に蹴上のインクライン跡が見えてきましたので、立ち寄ることにしました。
蹴上インクラインは、琵琶湖疎水の急斜面で船を移動させるために敷設されたもので、全長582mと、世界最長の傾斜鉄道跡だそうです。
琵琶湖疎水の管
蹴上信号から三条通を100m弱進むと、旧東海道への分岐があり、右の細道に入ります。細道はやがて平安神宮へ向かう通りに突き当たります。
細道の突き当たりから先の旧東海道は判然としないそうですので、三条通に復帰して、三条大橋を目指しました。
三条大橋
旧東海道西の起点に到着しました。近年は、自転車で何度も到達しているので、特別な感動はありませんが、歩いて渡れるということはすばらしいです。
三条大橋上から鴨川下流を見る
鴨川というだけあって、堰堤下の水面には、鴨がいました。
三条大橋西詰の 弥次喜多像と撫で石
弥次喜多像は、1994年に三条小橋商店街振興組合が建てたそうで、その前には撫で石があります。撫で石も、振興組合が「旅の安全を祈願して設置しました」と説明板に書かれていましたので、撫で撫でをしました。
いつもお世話になっている近くのローソンでコーラとおにぎりを買って、コーラを飲みながら思案しました。JR京都駅から帰るか、それとも、もう少し歩くか…
時間的には余裕があり、あと1時間以上歩けそうでしたので、折り返して、蹴上まで三条通の南側を歩き、山科駅まで、撮りきれなかった写真を撮りながら戻ることにしました。
三条大橋東の高山彦九郎像
1700年代後半に活躍した尊王思想家で、幕末の志士たちに大きな影響を与えたそうです。
この像前は、有名な待ち合わせ場所ですね。この像から100mほど東に、小学校の修学旅行でお世話になった、思い出深い「いろは旅館」があります。
坂本竜馬・お竜 結婚式場跡
竜馬とお竜は金蔵寺で祝言をあげたそうです。2011年ころまで、ここには東山ユースホステルがありました。現在はマンションです。
佛光寺本廟
ここが佛光寺本山なのかなと思って調べてみたら、そうではなくて、故人を祀る霊廟なんですね。
日ノ岡、車石記念碑のある広場
往路では、たいへん混雑していて、全景を撮れませんでしたが、帰路で撮ることができました。
今回は、天候に恵まれた一日でした。おかげさまで、無事街道歩きを終えることができました。
東海道 大津市瀬田・大江~大津市・逢坂山峠、蝉丸神社 [旧東海道]
1月25日 曇り後晴れ
出発地0→0:27大江・点滅信号→0:48瀬田唐橋→1:32膳所・和田神社→
2:32蝉丸神社2:48→4:06蹴上・インクライン跡地4:18→4:39三条大橋4:55→
5:55山科駅
1月3日に瀬田・大江の点滅信号まで到達しました。今回はその続きで、旧東海道最終地点の京都・三条大橋まで歩いてきました。風弱くて寒さもほとんど感じず、この時期としては天候に恵まれた一日で、快適な街道歩きになりました。
写真枚数が少し多くなりますので「瀬田・大江~蝉丸神社」と「蝉丸神社~三条大橋~山科駅」の二回に分けてレポートいたします。
三条大橋から山科駅までの折り返し距離を含めた距離 30.79km
出発地から三条大橋までの距離 24.5km
赤い欄干の橋(高橋川)
橋を渡ったところの左手が建部児童公園で、小山の上には檜山神社があります。小山の南側には、日本武尊が主祭神の建部大社がありますが、今回は時間の関係で立ち寄りませんでした。
山村石材店の石猫と道標
道標が示しているように、旧東海道は大通りをまっすぐ進まず左の道に入り、突き当りを右折します。
瀬田唐橋
様々な歴史の舞台となった唐橋ですが、壬申の乱で、大海人皇子に敗れた大友皇子を祀った御霊神社が、橋向こうの京阪線・唐橋前駅の西方にあります。
石山駅東のJRガード
旧東海道をなるべく忠実に歩くには、ガードを潜り抜けずに、手前の信号を左折して石山駅まで行き、跨線橋を渡ります。
ルネサス工場横の松
この辺りは、歌川広重の近江八景「粟津の晴嵐」の付近ですが、現在も僅かに残る松と新しい植栽松で、若干の雰囲気が感じられます。
さて、ルネサスは三菱・日立・日本電気(以下NEC)により設立された企業です。ルネサス工場の隣にはNEC系の日本電気硝子工場があります。かつて、日本や世界の半導体ハードウェア生産等を引っ張った企業の一つであったNECですが、現在ではその力はなくなり、ITサービスがメインの企業になりました。日本唯一のDRAM設計・製造会社であったエルピーダ(NEC・日立が起源)は経営破綻し、アメリカのマイクロンに吸収されました。日本電気硝子は、現在もNECが筆頭株主ですが、ニプロの持ち株比率が増えています。一般のNECパソコンは、既に中国・レノボ製です。ハードでは守りと撤退が続くNECですが、時代の流れで、致し方ないところがあるのでしょうか。私的には、製品面でNECグループがふたたび元気を出して欲しいですね。
若宮八幡神社
表門は膳所城・城門の移築だそうです。この先にある篠津神社や膳所神社の門も膳所城・城門の移築だそうです。
和田神社
境内には、関が原の戦いで破れた石田光成の護送中、つながれたというイチョウの木があります。
フレンドマート
ここで弁当を買って、近くの琵琶湖畔・なぎさ公園で昼食し、マッタリ休息するのがいいですね。
義仲(ぎちゅう)寺
室町期に六角氏が建てた寺だそうで、源義仲が葬られています。また、俳人・芭蕉がこの寺の風光をたいへん気に入ったそうで、芭蕉の遺言により、ここに芭蕉の墓がつくられました。
国道161号線交差点付近
旧東海道は、161号線との交差点信号のところで左折して、国道の大通り道を南に向かって進みます。しばらくの区間、道路の中央には、京阪・京津線の線路が続きます。
坂道を登ってゆくと、途中右手に関蝉丸神社の下社が見えましたが、立ち寄らずに国道の歩道を進みました。
逢坂の登り坂と京阪線の電車
右手に関蝉丸神社上社が見えます。
関蝉丸神社上社
関蝉丸神社は、「大津の歴史事典」によりますと、「嵯峨天皇のときに猿田彦と豊玉姫をまつり、円融天皇のときに琵琶の名手・蝉丸をあわせてまつった」と説明されています。
逢坂山峠付近
逢坂の関・石碑と公衆トイレがあります。
蝉丸はここに庵をむすび、「これやこの 行くも帰るも分かれては 知るも知らぬも逢坂の関」と詠んだそうですが、調べてみると、「行くもとまるも別れては」や「行くも帰るも分かれつつ」としている本もあるようです。
蝉丸神社入口
蝉丸神社
神社庁の「神社紹介」によりますと、関蝉丸神社とは異なり、蝉丸が主神で、猿田彦を合祀しているそうです。
逢坂山峠の休息所が混雑していましたので、蝉丸神社境内で補給休息させていただきました。神社すぐ北が名神高速で南が国道一号線なので、騒音がけっこうありますが、音の中にも閑を感じることができるよいところです。
東海道 石部宿東・三雲~草津宿~瀬田・大江 [旧東海道]
謹賀新年
旧年中は当ブログにご訪問くださいまして有難うございました。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
さて、近年の運動始め恒例になっていますが、本年も歩き始めは旧東海道の街道歩きになりました。昨年の最終地点が三雲でしたので、その続きで、三雲付近から西に向かうことにしました。
本日は、大津市石山駅まで歩くことを目標にしました。
実際に歩いた結果はといいますと、積雪等で路面が滑りやすい状況で、大津市瀬田・大江までとなりました。
1月3日 晴れ
出発地0→0:14三雲駅前→0:33大沙川隧道0:39→0:57由良川隧道→1:38石部田楽茶屋→
1:47石部西の東屋2:04→2:59手原の稲荷神社→3:48草津宿本陣→4:20野路の玉川→
5:00大江の点滅信号→5:12JR瀬田駅
歩行距離 26.82km
正月1日・2日と雪で、私の住んでいる町でも積雪がありました。3日朝の積雪は3cmほどで、道路上の雪はすぐに解けました。滋賀県側はどうだろうかとアメダスで調べてみたところ、降水量は少なく、まあ大丈夫だろうと出かけたのですが、鈴鹿峠を越えて西へ進めば進むほど雪が深くなってきましたので、『今日は歩きにくいかな?』と思いつつ、横田橋手前に着きました。
右手の石柱は微妙大師(万里小路藤房)のもので、道標です。
街道の日当たり部は雪が融けていましたが、日陰には雪がありよく滑りました。
JR草津線踏切南の標識
街道は、踏切を横断して、草津線の南側を歩くようになります。
標識右後方に見える山は十二坊(岩根山)
十二坊は登りやすく、山頂からは雪をまとった鈴鹿の山々や金勝の山々の眺めが素晴らしいです。中腹にある国宝善水寺は、元明天皇の勅願により建てられ、十二坊という名は、その僧坊(僧侶の住居)が12あったことによるそうです。
天井川・大沙川を貫くトンネル
隧道上天端の左手に弘法杉が見えます。
弘法杉横のお堂から大沙川を見る
お参りの方がたくさん来られたようで、お堂前まで、雪上にたくさんの踏み跡がありました。
大沙川を過ぎると直ぐに三雲城跡への分岐標識がありますが、今回は立ち寄りませんでした。
三雲城跡のある山(山の稜線付近に大きな八丈岩が見えます)
三雲城は、室町時代の文明期(1487)、六角高頼の命により三雲典膳が築城したそうです。足利義尚の六角攻めや、戦国期には、繖山の観音寺城から逃げた六角氏の臨時本城になったそうです。
天井川・由良川を貫くトンネル
現在、橋の工事中で、車等は通行止めです。
由良川トンネル西の街道
この辺りから雪が深くなり、屋根上には30cmほどの雪が積もっていました。
石部田楽茶屋
緩やかな起伏を繰り返す旧東海道を進んでゆくと、右折点に到達しますが、そこに茶屋があります。浮世絵師・歌川広重によって描かれた田楽茶屋を再現したものだそうです。本日は正月休みでした。
茶屋前で右折、少し歩いて左折すると、しばらくで左手に東屋が見えてきます。ここで補給休息をさせていただきました。
東屋を出発して、しばらく歩くと、三上山が間近に見えてきます。
六地蔵の左カーブ付近の街道
連子格子がベンガラ塗りです。三重県側の街道筋ではまず見かけませんが、滋賀県側の街道筋では、ベンガラ塗りの格子をよく見かけます。
旧和中散本舗
徳川家康腹痛のおり、腹薬を献上したところ、直ぐに治ったので、家康から和中散という名をもらったそうです。
六地蔵の一里塚跡
旧和中散本舗から少し進むと、左手に一里塚跡があります。
足利義尚 鈎(まがり)の陣所ゆかりの地 石碑 (堤の向こうは鈎池)
日野富子の子である足利義尚の六角攻め陣所跡ですが、実際の陣所跡は、350mほど西北西の永正寺付近だそうです。
義尚は鈎の陣中で病没したそうです。
草津市標識と旧草津川の堤に登る道
旧東海道は直進路を離れて、堤の上に登ります。草津川は江戸時代後期に天井川となったそうで、災害防止のため、滋賀県は1982年に放水路の工事に着手し、2002年に完成しました。そのため、この川は廃川となりました。
旧草津川を越えてしばらく進むと、東海道と中仙道の分岐点に到達します。
旧東海道・旧中仙道 分岐点
右手が旧東海道で、旧草津川を潜り抜けるトンネルの方の道が旧中仙道です。
人通りの多い道で、人物ありの写真になりました。
分岐点から直ぐのところにある草津宿本陣
本日は正月休みで、閉鎖されていました。
草津宿の街道筋
この辺りより南の街道筋は、数年前までアーケード街だったのですが、撤去されて明るい街道筋になっていました。
立木神社を過ぎてしばらく歩くと、草津川放水路(新草津川)にかかる矢倉橋を渡ります。
矢橋街道との分岐点で「右やばせ道 これより廿五丁大津へ船わたし」と刻まれています。写真の瀬川瓢泉堂ですが、昔はここが「うばがもちや」だったそうです。現在の「うばがもちや」本店は旧草津川堤防上の降り口から国道一号線に降り、歩道橋を渡って北へ一号線の歩道を少し歩いたところにあります(降り口から360mほど)。
矢橋道ですが「瀬田へまわれば三里のまわり ござれ矢橋の舟にのろ」とうたわれたそうです。水上路の危うさから「もののふの矢橋の船は速けれど 急がば回れ瀬田の長橋」といううたもあり、「急がば回れ」の語源は、ここにあるそうです。
旧東海道はやがて一号線と鋭角で交差しますが、一号線を横断してすぐに野路の一里塚跡があります。
日本六玉川の一つで、平安期には歌所として有名になったそうです。湧き出る現在の泉は飲用不可になっています。
野路の玉川付近は、鎌倉期まで宿駅として栄えたそうですが、宿が草津に移ってからは寂れてしまったそうです。
農業用の溜池で、日当りがよいところです。歩道の横にはベンチが設置されています。
山の手の街道を歩いてゆくと、やがて視界が広がり、信号のところで月輪池が見えてきます。
大江の点滅信号 旧東海道はここで左折
JR石山駅を目指してアップダウンのある街道を歩いてゆき、大江の瀬田小学校のあたりで、16時15分過ぎになりました。16時30分には駅に着くことにしていましたので、石山駅までは無理になりました。街道歩きはここで中止、右折して最寄の瀬田駅に向かいました。
東海道 四日市・海蔵川~亀山・井田川 [旧東海道]
1月12日 晴一時曇
四日市・海蔵川左岸提3:24→3:45諏訪神社→4:37日永追分→5:13杖衝坂→
5:47石薬師入口→6:07石薬師一里塚跡→6:39庄野本陣跡→7:13安楽川→7:45井田川駅
(時間は出発地からの経過時間)
海蔵川左岸の堤防でゆっくり休息した後、ふたたび街道を南に向かって歩き始めました。休息中に風向きが変わり、寒くなりましたが、歩き出すと体が温まりますので、これまでと変わらず、上はシャツ2枚で歩きました。
なが餅・笹井屋本店
三滝橋を渡るとすぐに笹井屋があります。笹井屋は戦国時代の天文16年(1550年)の創業で、もとは日永にあったそうです。
諏訪神社
勧進は鎌倉期と室町期の二説あるそうですが、近年は室町期が有力になっているそうです。本日、久しぶりにお参りしました。15日がどんど焼なので、お札・注連縄等が積みあげられていました。
大入道
本日も諏訪商店街の大入道が長首を伸縮させていました。私の若かったころ、諏訪商店街はたいへん賑わっていたのですが、連休にもかかわらず、通行人はまばらで実に寂しい人通りでした。大型ショッピングセンターに買い物客が流れているのでしょう。ここにかつてあった「岡田屋」の屋上遊園地で遊んだことや、「関西電波」・「サウンドラボ名泗」等の電化製品店でオーディオ・コンポーネントを買ったことを思い出します。その岡田屋が「イオン」に成長したわけですから驚きで、昔の三井「越後屋」に並ぶ現代の伊勢商人でしょうか。
日永・名残りの松
四日市市内には、江戸期の東海道・街道松が二本残っているのですが、この松が前半で紹介した「かわらずの松」につづく二本目の松です。ここも並木道だったそうですが、道路拡幅により、他の松はなくなってしまったそうです。
醸造場、伊勢蔵(いせくら)
日永の南部、泊付近は味噌屋、酒屋、桶屋、両替屋、茶屋等、多くの店が並んでいたそうです。
追分の湧水
本日朝、桑名市内の交差点で、信号待ちで一緒になった方から「鈴鹿の伏流水の湧き出し、追分の水を飲んでほしい。その西の小学校にもおいしい湧水がある」と勧められました。私は「今まで飲んだことがないので、今日はぜひとも飲もうと思います」と答えました。追分の水は今まで面倒で飲まなかったのですが、実際飲んでみると……おいしい水でした。
鈴鹿山脈の東麓から平野部にかけて、各地に湧水や自噴の井戸があります。四日市市内に酒造場が多いのも、良い水が得られるからなのでしょう。おもしろいのは赤水や坂部の一部の自噴井戸で、一般の井戸よりもかなり温度が高く、冬に湧き出し口付近の水溜りに長靴を履いた足を入れると、ほかほか温まります。
内部橋右岸にある「平成の一里塚」
位置的に一里塚ではありませんが、休息施設が整備されています。
うつべ町かど博物館
杖衝坂にあり、水・土・日・祝祭日の9時~12時開館だそうです。
史跡・杖衝坂
日本武尊が杖をついて登った坂で、坂を登りきったところには、命の足の出血を封じたという所伝から「血塚」という祠があります。
この先の一号線との合流点付近に采女の一里塚跡があります。一里塚跡から先の街道は、庄野宿まで、一号線と合流したり、離れたりを繰り返します。
石薬師宿入口にある地蔵堂。もとは道の向かい側にあったそうです。
石薬師の一里塚跡
江戸時代からの榎は伊勢湾台風で倒れてしまったそうです。
加佐登付近の堤防道路(国道一号線・旧東海道)から鈴鹿川下流方面を見る
日本コンクリート工場南端付近の信号を右折して、100mあまり進んだところにある信号を左折すると、庄野宿の町並みが現れます。
庄野・川俣神社のスダジイ
推定樹齢300年で、県の天然記念物だそうです。
女人堤防碑
女人堤防碑は昭和32年建立です。昨年の「東海道 庄野宿西から関宿へ」を参照ください。
中富田・川俣神社
神社の楠の大木は推定樹齢600年だそうです。神社東向かいには中富田一里塚がありました。
この中富田が旧亀山藩領地の東端(飛地は含まず)だったのですが、現在は鈴鹿市になっています。旧井田川村が亀山と合併するとき、大論議になったそうですが、結局、井田川村のうち小田・和泉・西富田・中富田が希望により鈴鹿市に編入、それよりも西が亀山と合併存続(鈴鹿に編入を望まず)で落ち着きました。現在、亀山市にも鈴鹿市にも井田川小学校(鈴鹿市側の校名は少し前まで和泉小学校)があるのは、その理由によります。
安楽川・和泉橋から西方を見る
写真では判りにくいですが、錫杖ヶ岳左に陽が沈む寸前でした。
井田川駅前
井田川駅前を通り過ぎて、国道一号線の歩道橋を渡り、さらに進みましたが、暗くなり始めましたので、井田川駅に引き返しました。
これで三重県内の旧東海道を自分的には詳しくたどれたように思います。写真撮影枚数は、神社仏閣・町並み等かなりの数になりますが、容量の関係であまりアップできないところが、少し残念です。
本日も長い街道歩きになりましたが、良い天気に恵まれました。おかげさまで歩行開始から7時間45分後、無事街道歩きを終了することができました。
東海道 桑名七里の渡し~四日市 [旧東海道]
1月12日 晴一時曇り
桑名駅0→0:20七里の渡し→0:57町屋川橋→1:43朝明橋→2:14富田・十四川→
2:59四日市・海蔵川
亀山市・井田川駅までの歩行距離 40.87km
1月2日に関宿から三雲まで歩きました。本日はその先、京都まで歩こうかと思っていたのですが、昨年レポートした三重県内の庄野~桑名間(自転車)が、自分的に不十分でしたので、今回は桑名~庄野間を歩いて、町並み等をじっくり(早歩きですが)見ることにしました。
庄野に到達した時点でまだ余裕がありましたので、さらに進んで、結局夕暮れまでに亀山市の井田川駅まで歩くことができました。
天気は、朝から午後1時くらいまでは穏やかな良い天気で、シャツ2枚で歩いていても暑いくらいでした。その後北西風が吹きだして寒くなりましたが、歩行には問題なく、快適に歩くことができました。
今回も長くなりますので、2回に分けてレポートいたします。
住吉神社
桑名駅から歩いて、揖斐川右岸の住吉神社に到着しました。、住吉神社は廻船の航海の安全を祈るため、大阪の住吉神社から勧請して建立されたそうです。石灯篭は、江戸期に材木商達が寄進したものだそうです。ここでお参りした後、「七里の渡し」へ向かいました。
住吉神社横の堤防から、揖斐川、伊勢大橋、長良川河口堰等を見る
七里の渡し跡、伊勢神宮の「一の鳥居」
ここが東海道・伊勢国の東の起点です。
熱田の宮宿と桑名宿を結ぶ「七里の渡し」ですが、宮宿と四日市宿を結ぶ「十里の渡し」というのもありました。江戸中期以降は十里の渡しの方が、利用者が多くなり、四日市宿と桑名宿との間では、たびたび争いが起こったそうです。
蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)
復元されたものです。一般開放されていますので(通常午前10時~午後3時)、ぜひ2階からの展望を楽しみましょう。蟠龍櫓は歌川広重の「東海道五十三次」にも描かれているそうです
春日神社、珍しい銅製の鳥居としるべ石
銅製の鳥居は寛文七年(1667年)、七代桑名藩主松平定重によって建てられたそうです。
桑名城城壁
揖斐川の川口樋門から南大手橋まで、延長約500mが現存しているそうです。
この先、城下町特有の曲がり角だらけの街道ですが、標識が整備されましたので、迷いにくくなりました。一部、失われた道もあるそうです。
矢田立場の火の見櫓
この角を左に曲がると、街道は町屋川(員弁川)まで真っすぐです。
料亭「玉喜」
町屋川突き当りの手前にあります。かつては街道名物安永餅を売っていたそうです。現在は近くに新館の料理旅館があります。
町屋橋跡
現在は小さな公園になっています。江戸時代には、川の中州を利用して、橋が二本に分かれていたそうです。この手前の交差点には常夜燈があります。
榎
近鉄伊勢朝日駅横の踏切を渡った先に、一本の榎が残されていますが、一里塚ではありません。
朝明川左岸堤防の常夜燈
朝明川左岸堤防手前の街道筋は桜並木の道で、春には綺麗な桜を楽しむことができます。
朝明橋から鈴鹿山脈方面を見る
少し霞んでいますが、釈迦ヶ岳、御在所岳、鎌ヶ岳が見えます。右は新名神。この橋から富田の入口付近までの街道は、アクセスの関係上、交通量が多くなります。
橋を渡った先の蒔田・大矢知地区は素麺の産地で、私も大矢知素麺をよく食べます。
十四川の桜
昭和15年に植えられたそうです。開花期にはたいへん賑わいます。
力石
もとは寺の土台石だそうで、明治中期から大正後期にかけて、茂福地区の青年たちが持ち上げて、力比べをしたそうです。大きい方は120kg、小さい方は19kgあるそうです。
茂福城跡
茂福城は室町時代から戦国時代にかけて在った城で、平維茂の子孫、平貞冬が、15世紀に越前・朝倉から茂福へ来て城を築き、朝倉氏を名乗ったそうです。最後の城主は、滝川一益に長島城へ誘い出されて殺され、その後、朝倉氏は滅亡したそうです。
かわらずの松
戦前まではこの付近の街道には松並木があったそうです。戦後の道路拡幅により、松並木は伐採され、この松だけが残ったそうです。
万古焼
四日市名産の万古焼です。羽津から川原町駅周辺にかけて万古焼工場が所々にあります。
順調に海蔵川左岸堤の桜並木に到着しました
ここも開花期にはたいへん賑わいます。河川敷は公園になっており、散歩されている方を時々見かけます。堤防横には一里塚跡があります。ちょうど良い時間になりましたので、ここで約25分間食事休息をしました。
東海道 土山・歌声橋~水口宿~石部宿東・三雲 [旧東海道]
1月3日 晴
土山・歌声橋3:39→4:01反野畷・松並木→4:17安井酒造場→
5:11水口宿・東見附跡→5:42五十鈴神社→6:21横田の渡し・右岸常夜燈→
6:38横田の渡し・左岸常夜燈→6:41三雲駅→電車→7:51関駅→
8:10関宿・西の追分
(時間表示は出発地からの経過時間)
歌声橋を渡って直ぐに右折して、松尾川の渡し右岸に行くのが本来なのですが、今回は省略して、そのまま西進しました。この付近には垂水斎王頓宮跡があります。毎年3月の最終日曜日に祭りがあり、大野小学校から頓宮跡まで、斎王行列が再現されるそうです。
反野畷と松並木
江戸期、頓宮山から流れる大日川の水が平坦部でたびたび大きな水害をおこしたので、元禄十二年(1699年)市場村は領主の許可を受けて、排水路工事に着手し、元禄十六年(1703年)大日川掘割が完成したそうです。
土山町徳原の地酒、初桜。 安井酒造場。
野洲川流域には酒造場がたくさんあります。安井酒造場の少し手前に明治天皇の宿泊地石碑があります。
土山町大野歩道橋上から国道一号線と旧東海道を見る
この後、街道は一号線や旧一号線から離れたり、合流したりを繰り返します。
要所にある旧東海道標識
数年前に、三重、滋賀共に旧東海道要所には標識が整備されましたので、迷うことは少なくなりました。
水口宿入口にある案内板と東見附跡
見附とは、防御や管理のために見張り番が置かれていた施設場所で、東海道では、概ね宿場や城下の東端(江戸口)と西端(京口)にあったそうです。
三筋の町、第二分岐。右が東海道です。地図を見ると判るように三筋の町が約1km続きます。
街道より古城山(水口岡山城跡)方面を見る。山頂からの展望が良い山です。
近江鉄道、水口石橋駅横の踏切
この辺りで、宿場町から城下町へと、町の構造が変わります。
最初の折れ点、右折地点
踏切から約250mの地点で、直進せずに右折します。城下特有の道で、右、左、左、右、左、右と、曲がりまくりですが、標識が整備されましたので、迷うことは無くなりました。途中、左折すれば、加藤氏二万五千石の水口城跡に行くことができるのですが、今回は時間の関係で立ち寄りませんでした。
五十鈴神社
五つ目の曲がり角に五十鈴神社があります。私は、自転車で旧東海道の桑名七里の渡し・京都三条大橋間を何度も走りましたが、時々ここで休息させていただきました。神社西端には一里塚跡の石柱があります。この先の最後の曲がり(交差点)が水口宿の西端だそうです。
美冨久酒造
水口宿西端交差点から250mほど西に美冨久酒造があります。この先しばらくで人家が少なくなります。まっすぐな街道(北脇畷)を西進しました。
舞込橋
この橋(泉川)を渡った所に一里塚跡があります。ここから約200mで横田の渡し跡です。
野洲川、横田の渡し跡
江戸期には、3月から9月の間は舟での渡しで、10月から2月の間は仮橋が設置されたそうです。
野洲川
ここから見る野洲川は大川の様相で、近江国一の川の雰囲気があります(瀬田川除く)。野洲川を渡ることはできませんので、下流の横田橋を渡って三雲の町に入りました。
横田の渡し、左岸の常夜燈
建立された当時は、現在地よりも200mほど上流側にあったそうですが、その後現在地に移設されたそうです。
JR西日本、三雲駅プラットホーム
電車で柘植駅まで、柘植で気動車に乗り換えて、関駅で下車しました。
本日は行動中、穏やかな冬晴れに恵まれました。おかげさまで出発から8時間10分後、無事駐車地の関宿・西の追分に帰着することができました。
東海道 関宿西追分から坂下宿、鈴鹿峠、土山宿 [旧東海道]
謹賀新年
旧年中は格別のご厚情を賜り、心よりお礼申し上げます。本年もよろしくお願い申し上げます。
さて、昨年の正月同様、今年も歩き始めは東海道になり、本日3日、鈴鹿関宿から近江石部宿東端の三雲まで歩きました。穏やかで素晴らしい天気に恵まれ、日中は上着を着て歩くと汗ばむくらいでした。長くなりますので、2回に分けてレポートいたします。
1月3日 晴
関宿・西の追分0→0:56坂下宿→1:18片山神社→1:28鈴鹿峠→2:31田村神社→
2:55土山宿本陣→3:08松尾川(野洲川)の渡し(18分休息)→3:38歌声橋
本日の総歩行距離 約37km
出発地(駐車地)の関宿西の追分
正面、向かって右が東海道、左が大和街道です。この追分手前には、無料の駐車場や休息所、そしてトイレが整備されています。この駐車場は空きがあることが多く、本日も朝の到着時は空いてました。
ここから石部宿東の三雲まで、できる限り旧東海道に忠実に歩きましたが、一部街道消失区間や川の渡し区間等は迂回して歩きました。
筆捨山
浮世絵で有名な筆捨山ですが、もとの山名は岩根山だそうです。室町期の画家、狩野法眼元信がこの山を描こうとしたものの、雲隠れ等の自然現象で描ききれなかったため、筆を投げ捨てたということから、筆捨山という名になったそうです。
筆捨山方面分岐標識
東海自然歩道経由で筆捨山や関の観音山公園方面に行くことができます。
鈴鹿馬子唄会館付近の街道に沿って東海道五十三次が書かれた木柱が立ち並んでいます。
鈴鹿馬子唄会館
街道に関係する品々や資料そして写真等が展示されています。
鈴鹿馬子唄 「坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る…」
正月早々カタい話ですが、冬に限らず、いわゆる西高東低の気圧配置のときは、唄のとおりの天気分布になりやすいです。この歌部分は鈴鹿峠付近で起こりやすい気象現象を語っている一節かもしれません。
坂下宿と三子山
かつてここは国道1号線メインストリートでしたので、幅広道になっています。拡幅のため古い家は撤去されたのでしょうか。昔の街道宿場町の雰囲気は感じられません。
松屋本陣の門が坂下宿の法安寺に残されています。他に大竹屋本陣跡、梅屋本陣跡、小竹屋脇本陣跡等の石柱がありますが、現在は茶畑等になっていて、痕跡はありません。
片山神社
元は三子山に祭祀されていたそうですが、火災により1294年、現在地に移されたそうです。一号線に近く、無人の神社だからなのでしょうか、近年も火災が頻発しています。
馬の水飲み鉢
かつて、峠を上下する馬のために、この辺りに水飲み溜めがあったそうです。現在のものは新しい御影石製ですので、再現されたものですね。
鈴鹿峠
この植林を抜けて、少し歩くと万人講石灯篭が見えてきます。
万人講石灯籠
この大灯篭の横にはトイレや休息イス等が整備されています。
冬の晴天時にはこの付近から、雪で白くなった綿向山を見ることができます。街道沿いでは、ここを過ぎると野洲川・歌声橋に至るまで、綿向山を見ることができなくなります。
灯篭を過ぎると一旦国道1号線沿いになりますが、所々旧街道も残っています。山中集落の西で新名神の高架下を通り抜けます。
蟹坂古戦場跡
1542年の伊勢国司北畠具教の甲賀攻めに対し、山中城主山中氏と守護六角氏が戦った古戦場で、合戦の結果は近江勢の勝利になったそうです。
かいどうはし
田村川木橋ができるまでは、この下流に渡り場があったそうですが、増水時に溺れ事故が多発したため、1775年に木橋が架けられたそうです。
田村神社鳥居
厄除けで有名な神社で、私も時々お参りする神社です。本日もお参りするつもりだったのですが、参拝者多すぎで、1時間ほど並ばなければならないような状態でしたので、またの機会に参拝させて頂くことにしました。
神社前で一号線を歩道橋で渡ったところに道の駅があります。道の駅横を通り過ぎて、突き当りを右に曲がると、旧街道らしい雰囲気がただよう土山宿の道になります。
扇屋伝承文化館
江戸時代に扇や櫛の販売で栄えた「扇屋」を地域の住民が購入し、平成21年に改修したそうです。土山は現在茶所ですが、櫛も有名ですね。
東海道伝場館と問屋場跡
問屋場は宿に関わる業務を行ったところで、様々な業務を行う役人が詰めていたそうです。
松尾川(野洲川)の渡し場
ここには橋がないので、渡ることができません。水深浅く、靴を脱げば渡れないこともないように思うのですが、街道の標識はかなり手前の段丘上の交差点で左へ折れる迂回路を示しています。
本日の中間点がこの渡し場付近でしたので、ここで食事休息をしました。堤防付近には鹿の糞がいっぱいで、河川敷は鹿や猪の生息地になっているようです。
歌声橋
歩行者や自転車専用の橋です。この橋の少し下流が松尾川(野洲川)と田村川の合流点で、橋の上から合流している様子を見ることができます。
橋を渡った後も、穏やかな天気に恵まれ、順調に西に進みました。
東海道 庄野宿西から関宿へ [旧東海道]
1月13日 曇り
出発地→庄野宿西→亀山宿→関宿→出発地
旧東海道詳細ルート地図が三重県のサイトにあります。
先週に引き続き本日も旧東海道の旧跡巡り等をしました。晴れのち曇りとなりましたが風弱く比較的暖かで気持ち良い一日でありました。
庄野宿西の東海道沿いに汲川原という集落があります。この辺りは平野部で、すぐ近くに鈴鹿川が流れています。現在はそうではないのですが、鈴鹿川はかつて天井川で、水害が多発していたそうです。汲川原集落の西端付近に女人堤防の碑があります。
女人堤防の碑
ここと道路の向い側に「従是東神戸領」という石柱が新旧2本立っています。この付近が神戸藩と亀山藩の境界だったようです。
碑文の転記
「この地鈴鹿川の北岸安楽川との合流点にあって完全な堤防のないが為毎年夏季の水害には耕地住宅の被害甚だしく人命を失ったことも屡次
幾度かの堤防建設の訴願も南岸の城下町神戸の浸水を怖るる藩主の許す所とならず強いて行えば打首の極刑に処せられる
されど毎年のごとく被害を蒙る部落民は眼前の苦悩に堪え難く如何なる処刑をも恐れず築堤せんとした
この時に当り菊女という乙女
打首の刑を犯す築堤は男子全部の命を失い将来部落の自活に大いなる支障をきたすこの工事は私等女子の死出の仕事にしましょう
と絶叫した
これに同じた女衆二百余人暗夜を選んで工を続け苦心惨憺六年遂に完成今日の美田安住の地を得るに至った
この事いつしか藩主の知る所となり処刑の日は来た
今その第一番者菊女が断頭の座についた刹那家老松野清邦の死を期しての諌による赦罪の早馬駆け来り既に覚悟した二百有余の命に助けられあまつさえ築堤の功を賞して金壱封と絹五匹を贈られた
実に女の一念岩をも通した美挙である
茲にこれを記念せんがためこの碑を建つ
篆額 三重県知事田中覚 撰並書 水谷潔 」
汲川原集落を過ぎると中富田、続いて西富田の集落を通ります。庄野・中富田・西富田いずれの町や集落にも川俣神社があります。
西富田・安楽川堤防下にある川俣神社
堤防上に上がり和泉橋を渡ると和泉集落に入ります。
和泉橋を渡った安楽川右岸堤防上から鈴鹿山脈を望む(右端 藤原岳、左端 御所平付近)
鈴鹿市 和泉にある分岐道標。文字が半分地面下に隠れていますが「右ののぼり道」
能褒野神社二の鳥居。この鳥居より10m程西の露心庵跡から西が亀山宿だそうです。
巡見道分岐。この地点は三本松と呼ばれているところで、数十年前までは実際に3本の松がありました。
交差点向かいの右が大手門跡、左が高札場跡
旧東海道はここで左折しますが、まっすく進んで亀山城跡に少し寄り道しました。
亀山城・多門櫓。最近江戸期の状態に近づける復元工事が行われ、黒板の多門櫓から白壁の多門櫓に変わりました。
布気神社。この神社前には東海道随一といわれた立場茶屋・能古があったそうです。
太岡寺畷(たいこうじなわて)。遠景の山は錫杖ヶ岳。
江戸期は松並木の畷だったそうです。現在松は無く、幅広の堤に桜が植えられ、桜の名所になっています。
川北本陣跡付近から東方面の関宿町並み。「~関の山」で有名な山車の倉が見えています。その一軒東は旅籠・鶴屋です。
眺関亭階上から関宿の町並みを望む。眺関亭(百六里庭)は川北本陣跡のハス向いです。
伊藤本陣跡。関宿には川北本陣と伊藤本陣の二軒の本陣があったそうです。
関宿旅籠・玉屋歴史資料館。向かいには「関の戸餅」の深川屋があります。
関地蔵院。西暦741年開創だそうです。東海道を挟んだ向かい側には「小万の仇討ち」で有名な小万の育った旅籠・会津屋(当時は山田屋)があります。
西追分・休息施設。地蔵院を過ぎると静かな雰囲気になりました。この休息施設付近が関宿町並の西端で、この休息施設では落ち着いて休息することが出来ます。
西追分。東海道と大和・伊賀街道の分岐点です。無料駐車場があります。
以上、穏やかな天気の中、自転車による街道巡りでした。
汗をかきかき東海道 庄野宿から桑名宿 [旧東海道]
1月6日 曇り
出発地→庄野→石薬師→四日市→桑名→目的地→出発地
謹賀新年
旧年中、お世話になりました方々様、まことに有難うございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
さて、新年早々大変なことになりまして、しばらくの間、山方面へは行けそうにありません。平地のほうは大丈夫ですので、本日は私の好きな旧街道巡りをしました。
寒い時期なのですが、私以外にも街道巡りをしている方に出会いました。私と同年代と思われる尾張系アクセントで話す方で「員弁街道を歩いて、阿下喜まで行きます」と言っておられました。
私の家は街道沿いにあるのですが、近年街道歩きをしている方々をよく見かけます。日本各地の話し言葉が聞こえてきますが、街道歩きも登山と同様、ブームが続いているのかもしれません。
石薬師は「卯の花の匂う垣根にホトトギス早も来鳴きて…」で有名な佐々木信綱の生誕地です。
杖衝坂
伊吹の戦いで体調を崩した日本武尊が、大和へ帰る道中、この坂を杖(剣)をつきながら苦労して登ったそうです。かなりの急坂です。
四日市宿、諏訪のアーケード街です。この通りが旧東海道です。本日は開いている店が少なく閑散としていました。
有名な四日市の大入道です。幼い頃、四日市祭りで初めて大入道の伸縮首を見たとき、びっくり仰天したことを思い出しました。
四日市、三つ谷一里塚跡
海蔵川左岸の堤防にあります。この左岸の堤防は桜の名所で開花期にはたいへん賑わいます。この他にも県内の旧東海道沿いには桜の名所が幾つかあります。写真は撮りませんでしたが、今回の道中では富田の十四川も有名な桜の名所です。
町屋川(員弁川)右岸から上流方面を望む。この橋を渡れば桑名宿です。
町屋川左岸少し北にある道標
ここで旧東海道を離れて目的地に向かいました。